アズさんは半世紀ほど生きてきて、今、ありがたい事にそれなりに幸せを感じられるようになった。
しかし、過去を振り返るとまあまあしんどい人生だった。
どうして、今、幸せを感じられるようになったのか?考えてみた。
やめる事に意識を向けるようになってから、なんだか生きやすくなってきた気がする。
そこで、やめて良かった事を言語化してみようと思った。
今回は『人の目、人の意見を気にすること』をやめて良かった事について書きたいと思う。
小さい頃は人の目が気になり、人の意見にびくびくして過ごしていた。
なるべく怒られないように迷惑かけないようにいわゆるいい子を演じていた。
無論、小さい頃はいい子を演じていたつもりはないが、自分の身を守る手段として、いい子→怒られない、これらを徐々に学習していき結果的にいい子だと怒られないと学び、生活していた。
途中で自分がどうしたいの?とか聞かれた時に、そんなものは分からなかった。
そこで気がついた。小さい頃は親の求める子供を演じていたのだと。
対人恐怖症でもあった。
家から出る時に近所の人がいるだけで、外に出れずに玄関で何時間も待機していたくらい人に会うのが苦手だった。
これは人の目を気にしているからこその症状だったのだと思う。
厳密には、ある程度知っている人は大丈夫なのだが、ちょっとだけ知ってる人が超絶苦手だった。
ある程度知っている人には挨拶すればいいだけ!と割り切って、何とかなるのだが、知ってるけど挨拶いる?
とか、微妙な知り合いだから会いたくないなぁ~とか、挨拶しなかったら、あの子無視した!とか思うかなぁ~とか、子供ながらにいろいろ考えてしまい、外に出れないでいた。
50歳を過ぎた現在でも本質的には同じように思うのだが、人の目を気にする事をやめたので、今ではこんな風に行動出来るようになった。
・微妙な知り合いにはとりあえず、笑顔で挨拶してすぐに去る。
・人の意見で傷づく事を言われたら、その人はそう思うだけ。と受け流す。
・そもそも、会いたくないと思った人とは会わない。
これくらいまでに進化した(笑)
そもそも多くの人は受け流す事が出来ないから苦労している。のだと思う。
受け流す方法はいろいろある。
アズさんが効果があった方法は、まずは「人の目、人の意見は気にしない」と決心することだ。
しんどい、しんどい、と思っていた時は”気にするもの”だと思いこんでいた気がする。
“気にしない”という発想がなかった。
これを”気にしない”と意識しただけで、アズさんは前にすすめた。
まずは自分に問いかけてみて欲しい!
「人の目、人の意見を気にしない」と意識している?と。
もしもノーだったら、意識することでようやくスタートラインに立てるのだ。
“気にしない”と意識し始め、”今、気にしてるなぁ~”と客観的にとらえられるようになったら前進だ。
頭の中に残る嫌な反芻思考は紙に書き出して、ビリビリに破いて捨てていた。
声に出してなるべく汚い言葉で思いのたけを一度だけ吐き出す!これもアズさんには効果的だった。
その際、言い終わったら最後に必ず、『毒は全部出た!』と、言い、その後は決してその事について言葉に出さないようにする。これがポイントだ。
言葉に何度も出すことは、とてもすっきりする行為だが、同時に記憶にも定着してしまう。
これでは受け流せなくなる。なので、愚痴を言うのは必ず一回だけと決めていた。
日頃はなるべく丁寧な言葉を心掛けているが、吐き出す時は思い切り汚い言葉を使った方がすっきりする。
これもポイントだ!
人の事が気にならなくなると、ほんとに生きやすくなる。
今では少しは気にした方がいいのかも?と思うほどのレベルまで到達してしまい、「鼻水がたれていてもしょうがない」と思えてしまうのだ。
以前のアズさんなら「あの人、鼻水たれてるよ」と絶対思われている。恥ずかしすぎる、目線が泳ぎまくる、緊張のあまり口がカラカラになる。
こんなふうに超絶恥ずかしく絶望的になり、動揺しまくっていた。
人の目を気にしていた過去のアズさんが、もし、鼻水たれてても気にしないで平気な人を見たら、この人すごい人だ!と、思っていたと思う。
たいていの人が思うであろう”鼻水たれてて汚い”なんて思うのではなく、人の目を気にしない、なんてすごい人なんだろう!と、思うのだ。
若い人で、人の目を気にしすぎて悩んでいる人は、歳をとると気にしなくなるはず!と小さな希望にしてもらえたら幸いだ。
同年代の人が悩んでいたら、今日が一番若い日なので、まずは気にしないを意識してスタートラインに立ってもらえたらと思う。
理想は恥じらいがあるくらいに気にするのがちょうどいい気がする。が、これは今後の課題だ。
恥じらいを持ちながらも人の事は気にしないようバランスを取りつつ今後も精進していく!


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